これまた考えるとは何か、という問いに関して新しい切り口を見つけた。ある本を読んでいる時に遭遇した。
考えるとは何なのかについて、過去に2つ書いたような気がする。1つは、問いを立てること。もう1つは、言い換えること。そして、もう1つ、切り口というか、条件というか、気付きがあった。
その前に、考えるについての勘違いについても考えてみたい。
皆さんは、1日にどれくらい考えて見るだろうか。仕事してる間はずっと考えているから、8時間とか。仕事の中でも、考える時間と考えない時間があるから、3, 4時間とか。もしくはあまり考えていないから、1時間にも満たないとか。僕も考えてみたが、仕事柄、考えることが多いような気がする。仕事中は大体考えているような気がするから、5時間以上は考えているんじゃないか。
まず1つ、考える、と、悩む、は違うことに注目してみたい。
悩む、とは、前に進んでいない。グルグル回っている状態だ。また、論理性はないはずだ。客観的に見れば、「え、なんでそんなことで悩んでるの?」と思われそうな(その人にはとても大きいとしても)小さなことでも、そのことについてずっと脳のエネルギーを浪費している。つまり、悩む、は感情が中心であるのだ。出口がない。解決に近づいていない。組み立てられていない。ぐにゃぐにゃ、ぐちゃぐちゃしているイメージ。
思考には飽和点というものがあると思っている。考えていると思っていても、ある一定のラインから、これ以上の前に進まないという壁がある。時間をかければ、よりよい質の思考が生まれると勘違いする。でも、考えても考えても(実際は「考えている」と思っていても)何かしらの解決策やアウトプットに繋がっている訳ではない。飽和点を越えて考えている場合は、それは悩んでいるのである。
そして、これに対比して、考える、は前に進んでいる。解決に近づいている。色んな要素を組み立てている。求めているもの、原因だったり目的だったり問題だったり事実だったり、それらに近づいている。
悩みと異なり、組み立てられている、前に進んでいるという感覚・自負があるから、感情に囚われている訳じゃない。悩みよりもポジティブで自信があるはずだ。まずは、この「前進している」という感覚が考えるにおいて大事らしい。
もう1つ、考えると勘違いされそうなことがあるらしい。それは、「公式やフレームワークに何かを当てはめる」という作業である。
例えば、三角形の底辺の長さが6cmで、高さが4cmだとわかった時に、面積を求めようとして、底辺×高さ×2分の1という公式に当てはまるこの作業自体は、ある考え方では、考えるとは言わないらしい。解決策に向かって前進しているから当てはめている作業も「考える」にあたりそうだが、そうではないらしい。少なくとも、僕が読んだ書籍によると、そうではない、という考え方があるみたいだ。
じゃあ考えるってなんだというと、公式やフレームワーク、考える軸みたいなもの、それ自体を組み立てることらしい。まあなんと難しい。そんなこと言われると考えるなんて全くしていないような気もする。
これって何を言っているかと言うと、例えば、事業の戦略を立てる時に、3C分析フレームワークを用いて、市場、競合、自社の枠に環境・項目を当てはめていく、というのは考えるという行為ではなく、3Cフレームワークそれ自体のようなものを作り上げた時にはじめて、考えている、と言える、と言っているのだ。経営者でも経営学者でも思想家でもないのに、そんなことできなさそうだ。
ただ、考える枠や軸を組み立てればいい、と言っているのであって、世界中で反響を読んで数十年使われるようなフレームワークを作り上げろ、と言っているのではない。考える枠や軸を組み立てるって、意外と誰でもやっているのだと思う。
すごく簡単に言うと、考える幅を狭める、ということである。意識的に、外の領域も意識しながら、考える幅を限定するのである。考える、というと、色んな方向に意識を及ばせそうな気がするが、そうでもないらしい。
例えば、飲み物を考えてください、と言われたとする。そこで、伊藤園、レッドブル、緑茶、アルコール飲料、梅酒、炭酸水、コーラ、みたいに単語が思い付いたとする。そして、ここから考えるという作業をしてみると、軸を設けるのである。現時点だと、粒度がバラバラなのである。そこで、例えば、「メーカー」という軸を設けて、それに基づいて名詞を想起したり整理したりする。例えば、他にも「加工方法」「価格」「抽象度」「色」など、軸を設ける。そういう風に、線を引いて、全体として縦に横にきれいに整理していく。これが、考える、ということみたいだ。
別の言い方をすると、区切りを入れる、ということだ。その中だけで考えず、外の領域も意識しながら、境界線を引く。そして、その境界線からなるべく曖昧性を排除する。そういう作業が、考える、という作業だ。
ちなみに、これは、言葉にする、という作業に非常に類似している。「定義」とは、その言葉の意味範囲がどこまでか、というのを明確に定める作業である。その規定作業が、言葉にする(もしくは、言葉を定義する、ということである)。
枠や軸を組み立てる作業が考えることだ、というのはこういう意味である。フレームワークを組み立てる、という言い方だとすごく仰々しくアカデミックに聞こえるかもしれないですが、「枠や軸を設ける」「区切る」という風に見てみると、考えるってみんなやっていると思う。まあそりゃそうである。
ちなみに、この作業、よく別の言い方で表現される。それが、論理思考(ロジカルシンキング)である。
論理思考というと、筋道のことばかりに目が行きがちだ。何かの概念要素と何かの概念要素を、「AだからB」「CだけどD」という風に繋げた時に、この「だから」「だけど」という繋げ方が、事実(もしくは事実に最も近いと現時点で考えられるもの)に基づいているかを検証する。そして、議論や推論を進めていく。そういうものが、論理思考だ、という観点。
間違っていないが、論理には、2つの考え方がある。それが、筋道と言葉である。
言葉を明確にすること、ふわふわしたイメージを言葉にして、他の言葉との境界線を明確にすること、それも論理の側面なのである。
この前提を共有した上で、ちょっと話を変えたい。
すごく面白くない講演ってあると思う。なんだろう、すごく一般的で普通の内容の話をしているような講演。何かのスクリプトを読んでいるような感情がこもっていない講演。面白くない。しんどい。楽しくない。印象としては、枠を与えられたから、その枠に当てはまるように丸めたような話である。話すために話しているような気がする。
でも、楽しい話って、伝えるために話している。枠を越えてでも話したいという熱さを感じる。すごくシンプルに自分の言葉で語っている。だから、楽しい。熱が伝わってくる。目が覚める。想いが心へ届く。言葉が口からでてきている、というよりは、頭と心の両方からでてきているのか、そういう違いがある気がする。
そして、頭と心からでてきている言葉は、考えられた言葉だと思うのだ。自分の言葉、人間味のある言葉、泥臭い言葉。それらには熱量を感じる。ワクワクする。楽しい。そして、熱量を感じる言葉は、先述のように、自分で軸や枠を組み立てて、(論理的に)考えられた言葉だと思うのだ。
色んな横文字がある。それっぽい横文字。「ガバナンス」とか、「マーケティング」とか、「ステークホルダー」とか。勿論、バチンッと意味を理解して受け手の理解度や環境等も認識した上で意図的に使っている人もいる。でも、これらの横文字って、往々にして、何となくの理解で、意味もあまりわからずに使ってしまう。だって、かっこいいから。プロっぽいから。みんな使っているから。
組織の言葉みたいなものがある。すごく一般的な、心のこもっていなさそうな言葉。文字を埋めないといけないから埋めたような言葉。語る枠を与えられたから、語っているような言葉。伝えたいが先にある訳ではなく、頼まれたから仕方なく語っているような、色んな教科書から切ったり貼ったりした言葉。考えられていないような言葉。おもしろくない。
自分の言葉で語る人は、伝わる。そして、小学生でもわかるような言葉で語る。シンプルな言葉で語る。勿論、難しい言葉を使うこと自体が悪いことではない。僕が焦点を当てたいのは、「自分で考えているかどうか」である。
そして、繰り返しになるが、言葉での語りはワクワクする。心に届く。心に熱量が届く。そして、おもしろい。楽しい。なぜなら、考えているから。どこかから、思考の枠や軸を借りてきて、中身を無理やり当てはめた訳ではないから。自分で考えて、枠や軸を自ら組み立てたから。真新しさがある。気付きがある。だから、おもしろい。
今日はここに照明を当てたかった。おもしろい言葉というのは、考えられた結果である、ということだ。考えると、おもしろい言葉がでてくる。その言葉に、その表現にワクワクさせられる
そして、考えるというのは、誰かが組み立てた論理を借りてくる訳ではない。その論理の枠に無理やり、何とか中身を見繕って詰め込む訳じゃない。何か伝えたいことが先にあったり何か自分で突撃したい何かあったりして、その結果、自分の心と頭で考える。その結果、自分の心と頭で軸や枠を組み立てる。その結果、自分の心と頭で論理的に考える。そういう過程を経て生み出された言葉は、本当におもしろいと思う。
先日、人の話を幾つか聞く機会があった。率直に言って、眠たくなる、晩ごはん何食べようか考えたくなる、貧乏ゆすりをしたくなる、そういう話と、急に心が熱くなる、急に目が覚める、急に知的好奇心で満たされる、そういう話もあった。
何が違うのかなって考えていた時に、「考えるってのフレームワークを自分で組み立てることだ」と説明している書籍に出会い、なるほど、と思った。そしてたぶん、考えられた結果の話はおもしろいんだろうなと思った。
考えるって、おもしろい。
僕の中では、嬉しい気付きだった。もっともっと考えてみようと思った。そうすると、世界がおもしろくなるみたい。楽しみだ。
【参考文献】津田久資, あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか, ダイヤモンド社, 2015